賞味期限切れソーダ

気の抜けた青春への憧れと読書と映画とアイドル

可能性のための生き方

いったいいつまで可能性のために生きればいいんだろう。

高校を卒業して、敬愛する三秋先生の言う「宙ぶらりん」のなかの「宙ぶらりん」、もうわかりきっている結果を期待して待たなくちゃいけない期間にいる。フラフラ、うとうと、ふらふら。

思えばずっと、選択の目的は可能性だった気がする。

 例えば今日、みんなが大好きな某巨大ショッピングモールへ行き、おしゃれ大学生になりたくてチークを買おうと思った。選択肢は2つ。色味は同じ。違いは、頬だけに塗れるか、唇も塗れるか。わたしは少しだけ悩んで、当然のようにチーク&リップティントを買った。

 ていうかそもそも、なんでおしゃれ大学生になりたいかって、『運命の出会い』とやらの可能性の、その間口を広げておくためなんだろう、たぶん。わたしの場合審査員は化粧をする人が多いだろうから、それもある。とにかく一見でパスされたくない。

あと大学に入るのも、これと言った目的なんかなくて、ただ可能性のためで。

東大に行ったら学者にもパン屋にもなれるって説得されてきたけど、果たしてそのパンは、15歳からパンを焼いてきた人にどれだけ勝てるものであるだろう。

いつだって可能性を求めていて、

可能性のチケットを探してばかりで、

いつも確率論で。

わたしが本当に似合う、プラムピンクのチークを買い逃したりは、してないだろうか。

 

というおしゃれくさった文章が昨年の3月の下書きから発掘されたので晒したい。文章における黒歴史だけは自分で引き受けると決めているので、積極的に人に見せるようにしている。

可能性のための生き方ばかりしている。プラムピンクのチークを買い逃したりしている。それは一年たっても全く変わらずに、むしろごろごろと悪化したみたいだった。

 

ここのところずっと、後悔ばかりしている。人生で初めての挫折(というか、勉強という自分の領域における他人からの拒否)を味わったのが去年のこの頃で、諦めなかったかっこいい同級生や優秀な後輩たちからは続々と素敵な連絡が来る。

ぽこん、とラインの通知が鳴って、「受かりました!」というこの上なく輝かしい文面に、反射的に唇をかみしめてしまった自分がいた。

もしかして私も、今からでも、何かに間に合うんじゃないか。来年から形式が変わるというし、もしかしたらこれが最後のチャンスなんじゃないか。一生後悔するより一回だけやってみた方がいいんじゃないのか。そんな思いをずっと引きずって一か月近く。深夜の眠れないネットサーフィン、ピクシブもnoteもツイッターも全部回り終えて、ふとひらいた自分の下書きにがくぜんとした。一年前の自分に諭されている。

 

本当に私、いつまで可能性のために生きるつもりなんだろう。

切り捨てた選択肢くらい、自分で引き受ける気概が、どうしてないんだろう。

就活もその先もずっとずっとずっと、可能性にすがって、カードをたくさん持っている方が強いみたいな顔をして、ゴミ屋敷に埋もれてただ死ぬだけなんじゃないか。また「ふりだしにもどる」のコマを嬉しそうに踏んで、そのあと、どうするんだろう。

本を捨てるより、レシートを捨てるより、部屋の全部を無印良品に変えるより。

選択肢の断捨離をしたい。したいな、と願うだけで、今日も一日が終わってしまう。